みかんな豆知識

後編:みかんの歴史 いつからミカンは我々の食卓にあるのか?

前回、みかんの歴史について、古代から江戸時代にかけて、和歌山の地に根付くきっかけになった話をいくつかご紹介しました。

みかんの歴史と、日本史というのが、実に密接に関わっていることが窺い知れたと思います。

簡単におさらいしますと…

1:古事記に登場する田道間守(たじまもり)という人が病気静養の垂仁(すいにん)天皇の勅命により、中国に渡って橘という木をとってきたのが始まりといわれている。

2:田道間守を祀った「橘本神社」近くの六本樹の丘をきっかけに多くの橘が地域に広まった。

3:空海や最澄が広めた密教文化から山岳信仰が流行し、白河上皇などの時代の権力者が熊野参詣を行うようになり、多くの人が和歌山を訪れるようになり、その道中でお土産としてみかんが売られていた。

4:戦国時代にかけて熊野信仰は衰退していくが、伊藤孫右衛門という糸我地域の在地領主が熊本から小みかんの苗木を持ち帰り、栽培を始めた。

5:戦国時代が終わり、和歌山のみかんに着目したのが徳川家康の10男の徳川頼宣である。

ここまでが前回のお話。

では今回は、この徳川頼宣を深掘りしながら、さらにみかんの歴史を紐解いていこうと思います。

ではまず、この徳川頼宣という人なんですが、

慶長七年(1602年)3月7日生まれ

紀州徳川家の初代藩主にして、徳川家康の10番目の男の子、

そして徳川吉宗のお爺ちゃんにあたります。

この時点でかなりのサラブレット感が出てます。

このとき徳川家康は59歳。

孫といっても良いくらいの男の子に、家康は猫かわいがり…

どころか、強烈な英才教育を仕込んでいきます。

まず、2歳のときに水戸20万石を与えられます。

よく、当時の話で「万石」ってのが出てきますが、これは一石=大人一人分の年間米消費量を目安にされており、これを基準に決められるわけです。

つまり、2歳にして20万人分の1年分の権力を得るわけです。

覚えてないだろ…さすがにって感じです。

当然、2歳なので政治的手腕を奮うわけもなく、父家康の下で育てられます。

7歳のときに加藤清正の娘と結婚、駿府50万石を与えられます。

こうやって聞くと

「家康さん、甘やかしすぎじゃないの!?」

と思われがちなんですが…

メッチャ厳しくしてます。

まるでスターウォーズのオビ・ワン・ケノービとルーク・スカイウォーカーのよう。

幼いのに馬に乗せて小川を越えさせ、落ちても知らん振り。

その甲斐もあって、頼宣はたくましく育ちます。

12歳のときに大坂冬の陣の初陣の際、父である大御所家康自らが鎧初めを行った。

鎧初めというのは、言葉の通り、初めて武具を着用すること。

これを家康にしてもらうって言うんだから、周りもびっくりしたでしょうね。

さらに2年後の大阪夏の陣では、先陣を希望するも却下され、メチャクチャ悔しがったそうで、

松平正綱が「また次の機会があるから」となだめると

「14歳は2回とないんだぞ!!」と怒ったそうです。

何という忠誠心と自己犠牲心。

キャプテン・アメリカみたいです。

キャプテン・ヨリナガですよ、こうなると。

そんな頼宣を見て家康は

「今の一言こそが槍(手柄)である」

と言って褒めたそうです。

しかし、いつの時代もヒーローには苦難の道が待っています。

二代将軍の秀忠は自分の権力を示すために、頼宣を駿府から紀州和歌山に転勤になります。

しかし、キャプテン・ヨリナガはへこたれません。


和歌山に紀州東照宮を作り、徳川家康を祀り、母・お万の方を弔うための海禅院の多宝塔を建て、戦国時代に破壊された文化財を再建するなど、その手腕をいかんなく発揮します。

紀州の東照宮と聞いて、

「日光東照宮のパクリ?」

などと笑わないように。

あの左甚五郎が作った欄間もあります。

ガチですよ。

左甚五郎の欄間
左甚五郎の欄間

そんな頼宣さんが主産業である米作に加えて着目したのが、ミカンなんです。

なんでもミカンを食べた頼宣さん、その味にえらく感動。

…と言ったかどうかは謎ですが、税を免除してミカンの生産に注力したといいます。

そして紀州でみかんが定着してきた頃、頼宣さんは考えます。

そしてそれは見事的中。

和歌山のみかんは江戸へ渡るやいなや、

「有田の蜜柑は格別に味がよく、高値で売れる」

評判になり、関西方面へも出荷されるまでになりました。

このお陰もあり、紀州藩の財政も潤い、徳川家が西の地方に目を光らせる拠点として発展していったと思われます。

そして、紀伊国屋文左衛門や滝川原藤兵衛を初めとする紀州の商人たちにより、船を用いて幾多の苦難を乗り越えて、和歌山のみかんは江戸へ渡り、

時代とともに船は列車になり、トラックや飛行機といったように流通手段も増えて、今や全国の隅々まで行き渡るようになりました。

今でこそ当たり前になった通販も、もとはこういう先人達の血の滲むような努力の甲斐あってこそ、ということを

私たちは決して忘れてはならないと思います。

元々は病気の天皇陛下に捧げるためにこの地に渡ったみかんは、今も人々を笑顔にするために、

今日も和歌山から全国の食卓へ届けられています。

現代の昭和、平成を経て、令和という新しい時代になっても

その精神は変わりません。

その気持ちを胸に、私たちは今日もミカンを作り続けています。