みかんな豆知識

有田みかんと紀伊国屋文左衛門

手作業で石垣を築き、麓まで足でみかんを運んでいました。
手作業で石垣を築き、麓まで足でみかんを運んでいました。

天正二年(1574年)、有田市糸我の伊藤孫衛門が九州の八代からみかんの苗木を持ち帰って植えたのが、有田みかんの始まりといわれています。
紀州の殿様である頼宜が、有田は平地が少なく、米ができにくいのを知って広めたとも伝わっています。
みかんは甘くておいしい食べ物として、江戸時代にはあちこちで植えられ、収穫されていたようです。寛永一二年(1634年)、有田の滝川原藤兵衛(たきがわらとうべい)が、自分のところで作ったみかんを江戸まで船で送ることにしました。それが江戸で評判となり、有田のみかんは美味しいと、多くの人が買ってくれました。


麓での選別作業は活気にあふれています。
麓での選別作業は活気にあふれています。

上方(大阪方面)はもちろん、江戸でも売れたということで、藤兵衛は、次の年から他の農家で作ったみかんも、一緒に運ぶようになりました。
紀州のみかんがたくさん江戸に運ばれるようになると、紀州藩も進んで支援しました。 それと同時期、江戸の町では毎年ふいご祭りになると、鍛冶屋が鉄を溶かすタタラにみかんを供えたり、子供たちにみかんをまいたりする行事がありました。
ある年、ふいご祭りが近づいているのに、海が荒れに荒れて、みかん船を出せない日が続きました。何日待っても、荒れ狂った海は静まりません。このままではみかんがくさってしまう。
みかんを作った農家も、みかんを売ろうとする商人も困り果てていました。 


○紀のマークは今でも使われています。
○紀のマークは今でも使われています。

そんな時、一人の若者が「よし、わしが船に乗る!」と言い出しました。のちに紀伊国屋文左衛門と呼ばれる十七歳の若者、文平です。海が荒れて荷物が届かない江戸に、今みかんを運べば、飛ぶように売れるに違いない。
ふいご祭りにはどうしてもみかんがいる、みかんがないと困るだろう。
そんな若者の勇気を見て、仲間が一人二人と集まってきました。荒れ狂う海の江戸への航路は、命がけです。みんな死を覚悟し、白装束を着て船に乗り込みました。船には波が入り、水を汲みだしたり、帆も破れ、あちこち修理しながら、運よく文平の乗った船は江戸の町にたどり着きました。
江戸の人たちは大変それを喜び、命がけで運んだみかんは、いつもより高い値段で飛ぶように売れました。 そのお金で塩鮭を買って、からになった船に乗せて持ち帰り、それがまたまた大阪で飛ぶように売れたのです。
このお金をもとに、文平は江戸で材木を扱う商人になり、たくさんのお金をもうけ、財をなしたといわれています。 有田みかんを有名にした文左衛門は江戸歌舞伎の演目にも取り上げられ、「沖の暗いのに 白帆が見える あれは紀の国 みかん船」とうたわれました。


紀伊国屋文左衛門
紀伊国屋文左衛門

伊藤農園の創業は1897年。紀伊国屋文左衛門のようにみかんを運ぶ移出業を営んでいました。二代目までは移出業を主にしていましたが、今では減農薬栽培のみかん作り、また、その柑橘をたくさんの人たちに楽しんでいただけるよう、ジュースやゼリーの加工会社として変容してきました。
私たちも紀伊国屋文左衛門のように、時勢をよみ、変化を恐れず、勇気を持って、この現代の荒波を乗り越えていきたいと思っています。